大変な10年でした。#2
「aberunrun日記」というよりは「aberunrunメモリー」に変えたほうがいいかな?
夫が亡くなって、我が家のビーグル犬「あべる」との二人きりの生活が始まりました。
淋しさも、ずいぶん紛れました。
一年後、急に食欲がなくなり、病院に連れて行くと
薬を処方してもらってはいたのですが、
そのうちに食事も受け付けなくなり、夫の元に旅立ちました。😥12歳でした。
(一緒にいてくれてありがとう。)
まわりから見れば不幸続きの私にも、初孫が誕生して😊
娘の家に行ったり、来たりと
忙しくも楽しい日々をしばらくは、過ごすことができましたが、
突然、弟が亡くなりました。😥😥😥51歳でした。
今までの誰の死より悲しかったです。
その後、父は弟の死を受け入れられず、心を病んでしまい、そして認知症になり、
母は看病と介護で疲れ果てていました。
母のためにと、必死で父の入所できる老人ホームを捜していました。
やっと入所できた老人ホームなのに、半年で亡くなってしまいました。😥
84歳でした。
私60歳。もう、還暦を迎える年齢でした。大変な10年間でした。
ちなみに、現在、母86歳。元気に好きなことをして毎日過ごしています。😊😊
大変な10年でした。#1
私が50歳の時、義父が亡くなりました。82歳でした。😥
亡くなる2年前から少しずつ介護が必要な状態になりましたが、
いろんなサービスを申請して、義母が主に介護していました。
それから、1年後、夫の病気が解り、2年間通院しました。
その間に義母の体調も不安定になり、通院が必要になりました。
夫の通院と重なるときは、福祉施設に預かってもらったりと大変な2年間でした。
近くには夫の姉妹はいるけど、率先して手伝ってはくれませんでした。
私も気合と意地と根性💥だけで過ごした2年間でした。
義母が亡くなった時(80歳でした)、母を私に残しては逝けない、とのことで、
夫は安堵していました。😥
それから5ケ月後、夫は2年間の闘病を終え、旅立ちました。59歳でした。😥
義父の最後の願い「家に帰りたい」は叶えてあげられましたけど、💝
義母には夫の病気のこともあり、いつもイライラして接していたような気がします。
優しくしてあげれなくてごめんね💔
私、53歳です。まだまだ、つづく
胸のしこり?
15年くらい前に、乳がん予防のセルフチェックをテレビ番組で放送していた。
一緒にセルフチェックした。
なんかある?やっぱりなんかある。硬くはない。でもなんかある。😥
いきなり大きい病院に行くのは勇気がいったので、近くの婦人科で
診てもらった。触診して、やっぱりありますね。すぐに紹介状を書きますので
総合病院に行くようにとのことだったので翌日行くことにした。
帰宅途中、車を運転しながら涙が止まらなかった。「私、死ぬ?」😥😥😥
翌日いろいろ検査したら、しこりではないとのこと。胸の2か所に水が溜まっているとのこと???
交通事故とかで過去に胸を強く打ったことありませんか?と聞かれたけど
記憶はない。とりあえず水を抜きましょうと言われ、大きな注射器で抜かれた
多くはなかったけど、濁った水だった。原因はわからなかったけど、経過観察で、
毎年、検査するようにとのことで、通院していたが、4年前、60歳になった時、
ずっと変化はなかったから、公共の集団検診でいいでしょうということで、
私の原因不明のしこり?の通院は終わった。🤣
夫が癌で亡くなったこともあり、乳がん、子宮がん、大腸がん、胃がん、肺がんの
集団検診は毎年受けています。
早期発見は治療できます。生きることができます。😉
母も検診で胃がんを発見してもらい、胃は3/1切除したけど、8年、再発することもなく元気に過ごしています。😉
余談ですが、私の胸は、独身の時からAカップ。胸から水を抜いた時、反対に水を
追加で入れてもらったら良かったのにと、
妹が笑いながら、冗談で言っていました。💢🤨
義母のロシア戦争
遠い国、ロシア・ウクライナ戦争は亡くなった義母を思い出します。😢
私の両親の戦争の思い出は、山の向こう側が赤く染まっていた。
そして、大人達が泣いていた。の記憶ぐらいだそうです。
終戦後も農家だったので、食べるものにも困らず、
私がテレビ等で思う終戦ではないようです。😅
しかし義両親には過酷な終戦だったようです。😢
義父は三男。兄二人が戦死して、いきなり跡継ぎに格上げしたと、
冗談交じりで言っていました。😒
しかし義母は、冗談も言えないくらいの惨事だったようです。😢
義母は樺太(今のロシア)で生まれ青春時代を過ごしていました。
実家は土木工事を請け負う親方だったとのことで、
お手伝いもいるとても裕福な暮らしをしていたそうです。😊
それが戦争に負け、着の身着のままで家族(6人)で逃げて逃げて
引き上げ船に乗船できたとのこと。逃亡時は死体を避けながら走ったそうです。
自分たちが乗船できたのは、
欲を捨て、何も持たずにひたすら逃げたからと言っていました。
義母の父は実家にいつも仕送りしていて、実家に戻れば歓迎して
受け入れてくれるという思いだったから、何も持たなかったと言っていましたが、
いざ帰ってみると、すでに弟家族が住み着いていて、居心地が悪かったようです。
それからも、私がテレビ等で知る、終戦後だったようです。
ニュースでロシア・ウクライナ戦争が報道される度、
心の中で「お義母さん、ロシア(プーチン)負けるといいね、
ウクライナがお義母さんの仇とってくれますように」🤐と思います。
義母の両親が他界した後、何十年も経ってから
国から戦前済んだ土地(財産)は放棄するか?みたいな書類が届いたけど、
自分は放棄しないから捺印しない。と言っていた。
(私には、どういう書類だったのか解らないが)
また、生まれ育った樺太(現サハリン)に行って、自分たちの居たところは
どうなったか見てみたいとも言っていました。
その思いなのかな?🙂
たった一度の海外#2
中国の空港では、夫が待っていました。😍
外国企業が多く進出している地区らしく
海岸沿いに、マンションとホテルが「ここは何処?」と立ち並ぶ地区でした。
夫は単身で赴任していたためホテル暮らしだったので、同じホテルに宿泊しました。
次の日、1泊2日で片道3時間位の旅行を手配していました。
日本語が話せないドライバーには同僚からいろいろ「心得」が伝えられていました。
道路から見える風景は広大な畑が広がり、中国そのものでした。
途中立ち寄ったガソリンスタンドのトイレには、びっくりでした。😒
着いた場所で、ガイドさんが待っていました。日本にも留学経験ある人で
自国と日本の文化の違いもはっきり分かっている人で、立ち寄る場所(トイレ)は
日本と大差のない所ばかりでした。😍
時折、現地の人から対面(自販機はない)で購入する、飲みものは、
丁寧にキャップの部分を点検して私たちに渡してくれました。😒
これも中国そのもの?
翌日、ガイドさんと別れる日、最後に選んでくれたレストランで、ガイドさん、
ドライバーさんを誘い6人での食事はとてもおいしかったです。😊
(それまでいつもホテルの食事だった)
ガイドさんも特にドライバーさんが恐縮して席に着いた時、
きっと高級レストランなんだと実感しました。
最後に娘たちが日本から持って行った、ファッション雑誌・中国の旅行ガイド本を
ガイドさんにあげた時とても喜んでました。(もちろん私達夫婦から謝礼)
ドライバーさんと、往復6時間位一緒だったので「外国人」という気負いもなくなり
日本語は、話せなくても手ぶり、身振りで一生懸命対応してくれました。
最後ホテル着いた時に夫が謝礼を渡すと、もらったことがないのか、びっくりして
そして喜んでいて最後に「ありがとうございます」と日本語で言ってくれました。
「日本人」と一緒ということで、もしかしたら挨拶程度は一所懸命練習していたのかも
しれませんね。
中国であった人たちは空港の人たちをはじめ、みんな優しく、親切な
人たちばかりでした。😊
夫が仕事中は、夫からの諸注意を受けながら、
3人でタクシーを使い街に出て、いろいろめぐり、やっぱり食べたのは、マクドナルドの店内でのハンバーガーでした。定番の味でした。😊
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たった一度の海外#1
今から20年前、夫は中国に赴任していた頃でした
3ケ月に一度、会社の経費で帰国はしていましたけど、ちょうど娘たちの夏休みに
「母を訪ねと三千里」ではないけど「お父さんを訪ねて三千里?」三人で行くことに
しました😉。
計画を練って地元の旅行社にチケット手配してもらい、その期間が楽しかったです。
夫の赴任先はその頃日本からの直通が少なく、日にち時間が予定が合わず
韓国で乗り換えることにしました。そこで欲が出た私、それじゃ韓国も旅行しよう
とのことで韓国に2泊して向かいました。今ほど中国は経済大国ではなく、
また韓流ブームも起きてない時期でした。
夫からは韓国の屋台での飲食はダメ、日本語は聞こえるように話すな、とか
いろいろ諸注意を受け😒いざ、出発。
ちなみに長女はオーストラリア、次女はアメリカに短期留学の経験があり、
特に次女は、英語を一生懸命勉強していて日常会話程度なら
話せると勝手に私は思っています。😉
韓国ではガイドさんとドライバーを旅行社が手配してくれ、問題なく過ごせました
かな?
ガイドさんの足先から頭までのブランド品を身に着けていたのには
娘たちもびっくりでした。
買い物には勝手に連れていかれ、高いものを売りつけられ、売りつけられた「キムチ」
は道中で醗酵して袋がパンパンになり帰国までの道中で捨てました。😢
ガイドさん達は昼食後迄でした。その後は
屋台の飲食はせず、サーテインワンのアイスを食べ、
フードコートでは片言の韓国語でいろいろ食べました。
(お父さん、屋台ではありませんよ。)
自分たち3人だけでの行動はすごく楽しかったですね、ドライバーは必要でも
ガイドさんはいらないですね。
空港で両替したウォンは少なくなり次女が銀行の窓口で英語で対応してもらい追加で
両替もできました。😊
つづく
運動
私は身長163cm体重53kg(現在)😅
独身時代は50kg
周りから何のスポーツしているんですか?とよく聞かれた。
実は私、運動神経ゼロに近いんです。😢
鉄棒の逆上がり 後にも先にも出来たこと一回もありません😢
縄跳びのようなリズム感があるのは出来ますけど、たぶん二重飛びは
数えるほどしかできなかったような気がする。😢
ドッチボール逃げてばかりで、ボールは受けたことがないかも、😢
もちろん運動会は大っ嫌いでした。
ビリではないけど、3位には入ったことあるかな?😢
バレーボール?まずサーブがコートに入りません。😢
バスケット?集中してゴールを狙えば入りますけど、走りながらは無理無理😢
誰もパスはしてくれないけど、ボールを追いかけながら、ひたすら走る
そんなスポーツかと思っていました。
スキーは雪の降る地方で育ったので、滑れます。
バランス感覚がよかったのでしょうか、ただ高い所から低い所に滑るだけですから
水泳、出来ません。☺☺☺☺浮くことはできるけど息継ぎができません。😢
とにかく運動が苦手でした。
そんな私でも今では、出来ることが増えました。😊
リフトも乗れてスキーもできます。😊
水泳もバタフライ以外だったら泳げます。😊
仕事も往復50分、なるべく歩いて通っています。😊
どうして?夫の影響だとおもいます。💖
夫は、私とは逆でアウトドア派でしたから。
畑の相棒
夫と二人で定年後、畑でいろんな野菜を育てながら過ごすつもりで
家の裏の土地50坪購入した。けど
病気になって、思うようにできなかった。
自分の代わりにと思ったのか
私に扱いが楽なカセットボンベで動くホンダの耕運機購入してくれた。
届いたのが、亡くなった翌日だった。
新車?だったから仏壇の横に飾った。自分の代わりとの思いだろうから
新車?の名前は「しげぼん」
「しげぼん」は働き者で私の畑での相棒です。
春早くから、あさつき・にら・ふき・ねぎ、あすぱらが採れいちご・ブルベリーがなり
(一度植えたら毎年採れるのが大好きです)
苗を植え、種を蒔き、夏野菜を経て、今は、みょうが採れてます。
最後に来年収穫のニンニクを今月末に植え付けます。
私の食卓を豊かにしてくれます。
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80代のシニアおひとり様
母は86歳
一人で暮らしています😊
畑仕事と草取りが大好きで、毎日の近所の人とのお茶のみも欠かせません。😅
私は一人暮らし、連れて来て一緒に暮らせばと言う人もいますが
母の大好きなこと、毎日のルーティーンできません。💖
そのことは、母にもストレスかな
と思い、私が2泊3日で月に2回ほど通っています。
通院はまだ一人で行けます。買い物はJAから食材が一日おきに届くよう手配しています。それ以外の諸用と実家片付けが目的です。
夫が元気だった頃、二人で出掛ける時は、常に助手席でした。
今は2時間30分、車の中で音楽を聴いて出かけます🚗
自分がドライブ好きなことも発見です。
もちろん悪天候の時は電車、バスで向かいます。
今回は、屋根裏についている窓(通気口)ふさぎ
刈った草をまとめ、車庫の上の小屋の掃除
2階の部屋の掃除、と汗だくでした。
こんな感じで毎回忙しく、我が家に帰って来るとほっとします。
やはり、我が家が一番。😂
雨どい清掃ならイエコマ <a
大事な家族の一員
タイトル名
aberunrun日記
我家の愛犬「あべる」の名前から
「あべるんるん日記」としました。
長女が地元を離れ大学に進学した時
家族が一人減って、すごく淋しい思いをしていました。
そんな時長女がビーグル犬をもらってくれました。
夫と下の娘と3人で空港に「あべる」を迎えにいきました。
生後4ケ月位だったのかな、初めて飼う犬はとても小さく
可愛かったです。
その日から「あべる」中心の生活が始まりました。名前の由来は
娘たちが幼かった頃見ていたアニメに「牧場の少女カトリ」に出てくる
ダックスフンド犬の名前が「あべる」でした。
アニメの中の「あべる」はとても賢く、主人に忠実でした。
でも我家の「あべる」は弱虫で、泣き虫で、自分を犬とは思ってなかったような
犬でした。でも存在だけで、家族みんなを和ませてくれました。
夫が亡くなって1年後亡くなりました。12歳でした。
いつも私に寄り添い慰めてくれました。それからは犬は飼っていません。
今いるのはメダカです。このメダカも娘が自宅から増えたのを持って来てくれました。
それから毎年帰省時にはメダカの卵を移しては増やしてくれます。
増えたり減ったりを繰り返し現在は50匹くらいかな
名前は全部まとめて、メダカだから「めだちゃん」です
大人メダカはプラ池に今年の小メダカは水連鉢で悠々を泳いでます。
朝起きてメダカに餌をあげながら ぼーと 眺めるのが好きです。
仕事のこと
結婚して10年は専業主婦だった
マイホームへの夢があった💖。(持てなかったら隣町での夫の両親との同居?)
下の娘が幼稚園(年中組)に入園きっかけに働くことにした。
9時から3時までパン屋さんで働いた。土・日は出勤が多かったから
夫にも娘たちにも寂しい思いをさせてかもしれない。😢(と、勝手に私が思い込んでいるだけで当人達は楽しんでいたかも)
私たち4人の家が建った。
大きな出窓、大きなベランダそして和室もある4LDK。💖
それから娘たちも成長して、進学を含めて進路を考えたとき
もっと稼げるように
フルタイムで働こうと求職活動開始して
営業所が10箇所もあり県内でも有数の建築資材会社に転職できた
事務職だ💖(初めて就職した時希望した職種だ)
格好いい制服を着て毎日意気揚々と通ったが
業績が悪化して4年で退職となった、悲しかったし悔しかった。
それから就職したのが今の職場だった
前職の経験が評価されての採用だった。悲しく悔しい思いもしたけど
無駄ではなかった。
結局24年も勤め、来年65歳で定年退職です。😊
私にはやりたい仕事も、これと言って仕事に活かせる資格もなかった
すごいねと言われるけど、事務員は一人でリストラにも合うことなく
ただ長く勤められただけ、すごい?ことなのかな?
夫のこと
夫は県外の会社から内定をもらっていたけど、親友が地元の会社に就職したことで
自分も同じ会社に就職したのだそうです。
もし、私が第一希望の会社に合格していたら、
もし、夫がそのまま県外の会社に就職していたら
私たちは出会うことはなかったということになりますね
偶然が重なった 縁なのでしょうか?
独身のころから、いろんな趣味を持ち
私とは違い、いろんなことができる人でした。親友と二人で高校の時からギターを
引き、(「ゆず」?いやいや「ビリーバンバン」?に近いかも)
文化祭で歌っていたとか(ほんと?かな)
サッカー部に所属していて、親友と二人でもし将来、息子が生まれたら
名前は「シュート」にすると決めていたとか
親友は息子が生まれ「秀人」だそうです。
我が家は娘二人なので、名前は譲ったと言っていました。
社会人になり休みの日は、よくバイクでツーリングしたとか
でも、親友がバイク事故を起こし右肩から指先まで動かなくなり
会社を辞めリハビリのため地元を離れた。😢
そして夫はバイクを乗るのを、辞めたそうです。
下の娘が大学生の時、バイクの免許が欲しいと言った時
最後まで反対しました。
それから夫は一人でジャズを聴き(今でも我家にはレコードが50枚以上はあります)
一人で山登りをはじめたそうです。
私のこと
私は高校卒業してこの地で就職しました。
理由は第一希望の就職試験に落ちたから😢
厳格な父から離れたかったから
叔母の息子が声をかけてくれたから
仕事は自分が希望した事務職ではありませんでした。😢
心の中で
私の有能さ(すごい傲慢ですね😅)を 誰もわかってくれないと毎日悲観して仕事していました。
それでも、このままでは有能な私(やっぱり傲慢ですね😅)が
周りのみんなと同じになってしまうと悟り
近くに服装学院があり夜間部もあることが解り
和裁コースを選択して毎日仕事が終わると通いました。結局4年間通いました。
肌着から留袖(結婚式で着る礼装)までの技術を得ることができました。
資格もその都度挑戦して得ることができました。
仕事にはしませんでしたけど、知人、知人の知り合いから頼まれ
今でも仕立てしています。(やっぱりお金は、もらっていました)
そして
一生懸命通っていたらお金をあまり使うことがなかったから
貯金もできました。多分結婚する時点で(41年前)300万位あったと思います。
すごいですね。
そのお金は自分の車🚗の購入資金と友人勧誘で一時払い養老保険(30年)とかで使い
その満期の通知が5年前に届き、長女にホンダフリード🚘新車で購入しました。
やっぱり、自分ってすごいですね(やっぱり傲慢ですね😅)
実家じまい3
掃除をして
レースのカーテンとじゅうたんだけはすべて交換した
それだけで見違えるくらい綺麗になった。😍💖
なのに、叔母が息子の家に引っ越しすることになったから
賃貸の件はキャンセルになった💢🤨
ガーン
それで不動産屋さんに生まれて初めて行った。
家の写真、部屋の写真、看板設置、HP掲載
いろいろ対応してくれても
貸主は一切負担金がないのも
知らなかった。😍(借人から頂くようです)
元々叔母に貸すつもりでいたから、家賃は維持費と私のちょっとの小遣い位でいいかな
と思っていたので安く設定した。
今この時代、みんな携帯電話で検索してくれる
そして家賃が安い順番で表示されるので我が実家は1ページ目に表示され
そしてさすが不動産屋さん。写真映りがすごく広く素敵に掲載されている
すぐに、問い合わせがきた。とのこと
娘曰く、何これ
安く設定していたのでまるで「訳アリ物件」みたいじゃない😒
結局20代の夫婦(子供1人)に貸すことにした。
長く住んでくれそうだったから
その日から人生初めての大家さんです。💖💖
この続きもまだまだありますが
いったん「実家じまい」終わりです。
、
実家じまい2
空っぽになった実家😢
やっぱり築35年は過ぎていてそれなりの劣化があった
板でふさがれた(義父が応急処置)土台の通気口
害獣侵入防止のためプラスチックの通気口10個🛒購入
ジャストサイズがなかったため自分で、のこぎり片手に奮闘した
コーキング剤で張り付けた
我ながら満足の出来👍
網戸の張替え
窓、すべてに設置されていた網戸は破れていた
ネット1巻き10M🛒購入
片方を押さえてくれる助手がいないため
一人での作業は悪戦苦闘した💦
我ながら大小合わせて19枚
網戸張替えます!の仕事ができそうだ👍
窓シート張り
外から丸見えのため、台所・階段の踊り場の窓にと思いシート🛒購入
以外と簡単にできた。
だんだんとDIYが楽しくなってきた💖
まだまだつづく
おまけ
今日主人の70歳の誕生日🎉
(生きていたらね)
天国のあなたへ
自分が逝ったあとの私のこと心配してくれていたけど
私、頑張っていますよ。安心してください。😊